三浦梅園(1723年~1789年)は江戸時代中期の哲学者です。
大分県国東半島の寒村にあって、『玄語』『贅語』『敢語』を著し、世界は、対になる二つのものからなる「一即一一」であるという条理の哲学を展開しました。
その著作は哲学のみならず、健康論『養生訓』、経済書『価原』、詩文から紀行文・随筆と多岐に渡っています。まさに小さなケシの実から深淵なる「玄」の世界に至るまで、梅園の興味は全方向に張り巡らされていて、そのマルチな才能から、東洋のレオナルド・ダヴィンチといっても過言ではありません。詩人にして哲学者、医者にして教育者、後に豊後聖人と称された仁徳の人にして、身分制を擁護するかにみえてその実過激なまでの職分論者であり、生涯仕官することもなく、一介の老農夫を名乗った自由人。
本サイトは2015年で創設40年を迎える「梅園学会」会員諸氏の論文の顕彰と活用、そして未来に向けて、三浦梅園の魅力を発信することを目的にしています。
「梅園学会」が産声をあげたのは1975年5月4日のことでした。第一回梅園学会梅園旧宅での開催は、現代表の小川晴久氏に負うところが大きいと、「梅園学会報」創刊号は伝えています。「ただボンヤリと梅園を尊敬している人は多いがどうして尊敬に価いするかが一向に明確でないのは、具体的な研究を怠っているためである」と、会の創設の目的をあとがきで高橋正和氏が述べておられます。
今はどうでしょうか。
私たちの目標は残念ながら当時掲げたものと変わりありません。もっと憂うべき状況だとも言えます。田口正治先生(吉川弘文館『人物叢書 三浦梅園』の著者)をはじめ、多くの先学が既に故人になられている現実が重くのしかっています。
情熱的に三浦梅園研究に取り組んだ先学の梅園研究を引き継ぐとともに、高橋氏のいう具体的な研究の一環としてとして、梅園の魅力を若い世代に伝える努力が一層問われています。
本サイトが、おひとりでも多くの方のお目に触れ、三浦梅園を語るきっかけとなってくれることを願っています。